群雄割拠の戦国時代。名だたる戦国大名たちが名を連ねる中、本当の最強の男は一体誰なのか?人気歴史アクションゲーム「戦国無双」に登場する戦国武将の中から、独断と偏見で最強ランキングを決めようと思います。史実を加味しながら武力や知力だけでなく、政治、活躍度、人気度、統率力も加味して決定したいと思います。
- 第1位【本多忠勝】戦国最強の武将
- 第2位【織田信長】第六天魔王
- 第3位【豊臣秀吉】天下統一の三英傑
- 第4位【武田信玄】甲斐の虎
- 第5位【上杉謙信】越後の龍
- 第6位【徳川家康】江戸幕府初代将軍
- 第7位【伊達政宗】東北の独眼竜
- 第8位【真田幸村】日本一の兵
- 第9位【毛利元就】中国地方の覇者
- 第10位【石田三成】佐和山の狐と呼ばれた知将
- 第11位【立花宗茂】剛勇鎮西一と評された勇将
- 第12位【島津義弘】九州の鬼将軍
- 第13位【竹中半兵衛】今孔明と呼ばれた天才軍師
- 第14位【黒田官兵衛】今世の張良と呼ばれた参謀
- 第15位【直江兼続】上杉景勝の懐刀
- 第16位【前田慶次】天下御免の傾奇者
- 第17位【島左近】石田三成の側近の軍略家
- 第18位【明智光秀】織田信長を倒した謎多き武将
- 第19位【柴田勝家】織田家筆頭家老
- 第20位【前田利家】槍の又左
- 第21位【井伊直政】家康に最も愛された徳川四天王
- 第22位【藤堂高虎】主君を七度替えた戦国の転職王
- 第23位【加藤清正】賤ヶ岳の七本槍
- 第24位【福島正則】賤ヶ岳の七本槍
- 第25位【浅井長政】信義を貫き乱世を戦う勇将
- 第26位【長宗我部元親】南海の覇王
- 第27位【大谷吉継】流れを見通す才人
- 第28位【今川義元】海道一の弓取り
- まとめ
第1位【本多忠勝】戦国最強の武将
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、徳川の守護神。通称は本多平八郎。愛槍は天下三名槍の一つに数えられている蜻蛉切で、斬れぬものはないとされる。徳川家の幾多のピンチを切り抜け、個人の武力として戦国時代最強とされている。一人でも戦局を覆すことが可能。本多平八郎忠勝、推して参る!
第2位【織田信長】第六天魔王
尾張(愛知県西部)を所領とし、日本に覇を唱えんとする戦国の魔王。桶狭間の戦いにて駿河の戦国大名・今川義元を討ち取り、尾張の小大名から一躍天下争いに踊り出た。楽市楽座を取り入れ、南蛮貿易を開始し、日本初の天守のある安土城を築城。その後も長篠の戦いで当時最強と謳われた武田の騎馬隊に圧勝し、天下統一に目前までせまるが明智光秀の謀反『本能寺の変』により生涯を閉じる。
第3位【豊臣秀吉】天下統一の三英傑
愛知県の農家出身。織田信長に仕え、『高松城の水攻め』や『石垣山一夜城』など知恵と愛嬌を駆使して大出世し、天下統一を果たした天下人。天下統一後は太閤検地や刀狩令などの政策を実施。わしこそ、天下無双の知恵者なんさ!
第4位【武田信玄】甲斐の虎
甲斐(山梨県)の戦国大名。風林火山を軍旗に掲げて、軍配を片手に無敵と言われた武田騎馬隊を率いていた。1573年の『三方ヶ原の戦い』と5回おこなわれた『川中島の戦い』が有名。『人は城、人は石垣』との名言が残っており、家臣や領民の心を掴んだ名君だったと言われている。
第5位【上杉謙信】越後の龍
越後(新潟県)の戦国大名。戦場での神がかった強さから軍神と称えられている。闘争の中に真実を追い求め、戦いそのものに生き様を見出す孤高の求道者。感情を表すことはほとんどなく、ただ闘争によってのみ自身を表現する。毘沙門天を信仰。
第6位【徳川家康】江戸幕府初代将軍
三河(愛知県豊川市)の戦国大名。思慮深く忍耐強い性格。秀吉政権下では五大老に列せられ大老筆頭となる。若い頃の戦績は負け戦が多いが、59歳で関ヶ原の戦いに勝ち、74歳で大坂夏の陣を勝利したのち、75歳で死去。他の将軍と比較して軍才に劣るが、人徳があり、部下に本多忠勝という天下無双の武士を持つ。三河武士の粘り腰を見よ!
第7位【伊達政宗】東北の独眼竜
出羽国(山形県、秋田県)と陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県)の戦国大名。江戸時代まで生きて仙台藩初代藩主となった。戦国大名の中でも長生きした人物で、69歳まで生きて三代将軍の徳川家光の時代まで仕えた。晩年は仙台味噌を開発し、「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」の名言が残されている。
第8位【真田幸村】日本一の兵
真田昌幸の次男。本名は真田信繁。上杉や豊臣など人質生活が長かったが、第二次上田合戦では徳川秀忠と対峙し、大坂冬の陣と大坂夏の陣に参戦。家康本陣まで迫る奮戦を見せるも、あと少しのところでむなしく首を取られる。講談で親しまれた真田十勇士には猿飛佐助や霧隠才蔵といった人物が含まれている。家紋は六文銭。大河ドラマ『真田丸』では真田幸村役を堺雅人が熱演。貫き通すは、我が信念!
第9位【毛利元就】中国地方の覇者
安芸(広島県)を本拠とする大名。最初は小規模な国人領主だったが、一代で中国地方を支配。『厳島の戦い』ではスパイを逆利用し、6倍の兵力差があるも水軍(海賊)と挟撃して勝利する稀代の策士ぶりを発揮。日本最大の銀山『石見銀山』を所有し、圧倒的財力を誇り、毛利水軍は瀬戸内海の覇権を確立。他に『三本の矢』の逸話が有名。75歳(1571年)に死去。三男に五大老の一人・小早川隆景がいる。
第10位【石田三成】佐和山の狐と呼ばれた知将
豊臣家家臣で五奉行の一人。滋賀県にある佐和山城主。近江長浜城主になった羽柴秀吉の時代に仕官し、賤ヶ岳の戦いや、小牧・長久手の戦いに従軍。豊臣政権以降は、小田原征伐や文禄の役に参陣。五奉行の一人として主に行政を担当。その後、徳川家康と対立して関ヶ原の戦いに発展する。知行の半分を与えて召し抱えたといわれる島左近がいる。
第11位【立花宗茂】剛勇鎮西一と評された勇将
豊後国(大分県)出身の戦国武将。立花家の婿養子。豊臣秀吉の傘下に入ることと引き換えに、軍事的支援を懇願。豊臣秀吉の九州征伐で功績を残し、大名に取り立てられる。その後も朝鮮出兵に参加し、獅子奮迅の活躍を見せる。関ヶ原の戦いでは、不利と知りながらも恩義から西軍に味方した。風は行く、乱世の彼方へ。
第12位【島津義弘】九州の鬼将軍
名門・島津一族の雄で『鬼島津』の異名を持つ九州屈指の豪傑。博打と野望を口にし、戦の中にこそ己の生き様を見出す生粋の武人。劣勢のときにこそ本領発揮する。九州統一を目前にし、宿敵である立花家の末子・立花宗茂と誾千代にその野望を阻まれる。我こそ鬼島津…天下無双の鬼よ!
第13位【竹中半兵衛】今孔明と呼ばれた天才軍師
豊臣秀吉の軍師として活躍した武将。織田信長の命を受けて勧誘しにきた木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の天性の才能を見抜き、秀吉の家臣に仲間入り。今孔明と称されるほど智謀知略に長けていたが、35歳の若さで病により陣中にて死去。「女のようだ」との記録が残っており、美形イケメンとも言われている。
第14位【黒田官兵衛】今世の張良と呼ばれた参謀
天下統一を補佐した豊臣秀吉の参謀。戦国時代屈指の策略家。実名は黒田孝高。同じ秀吉の軍師で竹中半兵衛とともに『二兵衛』『両兵衛』と称賛された知恵者。あまりにも優秀すぎる頭脳から主君の豊臣秀吉からも警戒されるほどだった。築城にも才能を発揮し、姫路城、大坂城、広島城、石垣山城など、秀吉政権下での主要な築城に関わっている。大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公でも有名。
第15位【直江兼続】上杉景勝の懐刀
上杉景勝が治める米沢藩(山形県)の家老。愛染明王の頭文字の愛から取られた『愛』の兜姿が有名。関ヶ原の合戦の遠因となる会津征討では石田三成と事前に密約を交わしており、長谷堂城の戦いに勝利したのち、関ヶ原の戦いに参戦し家康を挟撃する密約があったのではと憶測されているが、予想に反して関ヶ原の合戦が1日で決着してしまい、その密約が果たせなかったとも言われている。敵対勢力である奥州の覇者・伊達政宗とは戦を交えており、徳川政権下になっても仲が悪かったとする逸話が残されている。
第16位【前田慶次】天下御免の傾奇者
生誕日不明の武将。織田信長の重臣でもある滝川一族出身とされており、滝川勢として小牧・長久手の戦いに参戦。戦場全体の雰囲気を変えられる数少ない武将。多数の俳句・和歌が残されており、高い教養を身に着けた猛将だった。最後は豊臣五大老の一人、米沢藩初代藩主の上杉景勝に仕えた。後年の創作漫画により人気の武将だが、あくまで戦国時代の一武将のため、正確な情報に乏しい謎めいた武将。
第17位【島左近】石田三成の側近の軍略家
大和出身の優れた軍略家。浪人として各地を転々としていたが、のちに石田三成に破格の待遇で迎えられ側近となる。史実では最後まで三成に尽くし、関ヶ原の戦いの奮戦は凄まじかったことが記録されている。最後は関ヶ原の戦いで討ち死したとされるが、首が見つかっておらず、生存説が現在まで残っている。
第18位【明智光秀】織田信長を倒した謎多き武将
美濃出身の智略に長けた名将。織田信長の重臣の一人。織田家仕官以前の半生に関してはまともな資料は皆無で謎に包まれている。本能寺の変で織田信長を討つも、山崎の戦いで秀吉に敗れ、わずか11日後に命を落とす。三女にキリスト教徒(キリシタン)となった細川ガラシャがいる。大河ドラマ『麒麟がくる』では明智光秀役を長谷川博己が熱演。
第19位【柴田勝家】織田家筆頭家老
織田四天王最古参にして織田家筆頭家老。上杉家を風前の灯火まで追い詰める。織田家の中ではその剛勇と厳格さから「鬼柴田」の異名で知られる猛将。賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ自刃する。部下に前田利家がいたが、裏切られている。嫁はお市(信長の妹)。
第20位【前田利家】槍の又左
尾張出身の戦国武将。14歳頃から織田信長の家臣で、柴田勝家の与力でもあった。前田慶次の叔父にあたる。恵まれた体格の持ち主で『槍の又左』の異名をもった。各地を転戦し、最終的に豊臣政権の五大老の一人に至る。加賀(石川県)を治め、加賀百万石の礎を築いた。最後は秀吉の死の翌年(1599)後を追うように病死。天下五剣に数えられる国宝『大典太』を所持していた。
第21位【井伊直政】家康に最も愛された徳川四天王
佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、本多忠勝と肩を並べる勇将。井伊の赤備えとして有名で、幕末に至るまで彦根藩の軍装は赤備えが基本とされた。直政自身も戦場では真っ赤な鎧で、井伊の赤鬼と恐れられた。外様でありながら、若くして徳川家康に重用された。
第22位【藤堂高虎】主君を七度替えた戦国の転職王
築城の名手として名高い戦国の転職王。浅井長政から始まり、織田信長の甥、豊臣秀吉から徳川家康まで主君を何度も変えたことが有名だが、主君が夭逝・滅亡したりと本人側すれば致し方なかったという事情がある。当時の最新技術を駆使して、江戸城や大阪城をはじめ20以上の城にの築城や改修に携わった。特に愛媛県の水の上に浮かぶ『今治城』は最高傑作。歴代の主君から高く評価されており、徳川家康とのエピソードは多い。
第23位【加藤清正】賤ヶ岳の七本槍
豊臣秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。智勇を兼ね備え、秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げる。五奉行の石田三成とは朝鮮出兵の頃から仲が悪かったため、福島正則とともに関ヶ原の戦いでは徳川軍の味方につく。藤堂高虎、黒田官兵衛と並び築城の名人として知られ、江戸城や名古屋城の築城に携わった。難攻不落の熊本城を築城。熊本藩初代藩主。
第24位【福島正則】賤ヶ岳の七本槍
豊臣秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として賤ヶ岳の七本槍の中でも最大の武功をあげた喧嘩番長。五奉行の石田三成とは朝鮮出兵の頃から仲が悪く、『石田三成襲撃事件』をおこすほど。そのため関ヶ原の戦いでは徳川軍の味方につく。酒の失敗談が多い。
第25位【浅井長政】信義を貫き乱世を戦う勇将
北近江(滋賀県)の戦国大名。織田信長の妹・お市と政略結婚して、織田信長と同盟を結ぶが、信長が父の盟友である朝倉義景と信長の不仲だったことから、後に信長と決裂して織田軍との戦い(小谷城の戦い)に敗れて自害。浅井三姉妹(茶々・初・江)の父親。
第26位【長宗我部元親】南海の覇王
土佐国(高知県)の大名。土地柄から海戦が得意そうに思われるが誤解。全盛期は武勇に優れ仁慈に厚い名君と評価されているが、晩年は後継者と目されていた信親が戦死した後は性格が一変し、晩年を汚した。
第27位【大谷吉継】流れを見通す才人
豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。通称は大谷刑部。大谷と言えば白い頭巾がトレードマークだが、若くして患った難病が原因で、ただれてしまった顔を隠すためだった。関ケ原では失明状態のまま西軍に参加したが、小早川秀秋の裏切りで敗戦すると切腹して死去した。
第28位【今川義元】海道一の弓取り
現在の静岡県全域と愛知県東部を治めていた武将。今川義元と言えば貴族のようなイメージでひ弱な印象を持っている人も多い。しかし、実は『海道一の弓取り』と称されるように織田信長、武田信玄、北条氏康といった戦国屈指の大名たちと渡り合ってきた文武両道の武将である。大河ドラマ『麒麟がくる』では片岡愛之助が熱演。
まとめ
戦国時代から安土桃山時代の武将をまとめました。一説には一国一城を治めた戦国大名は百名以上いたと言われているそうです。戦国時代は守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した時代で、領土拡大に向けて各地で戦が勃発。もっとも武将と呼ばれる人物が生まれた時代とも言えますね。
2020年12月28日に放送されたテレビ番組『国民・専門家・AIがガチで選ぶ戦国大名総選挙』では、1位織田信長、2位武田信玄、3位豊臣秀吉、第4位上杉謙信、5位毛利元就という結果でした。20位以下には毛利輝元、上杉景勝がランクイン。